京都のおばあちゃんがそろそろヤバイそうなのでお見舞いに行く為に実家に帰ってきた
前に会ったのは9月ごろで、その時はおばあちゃんは痴呆と耳が遠くなっているののダブルパンチで常にオリエンタルラジオくらいの声量で僕に喋っていた
今はさらにそこから痴呆も進行しているようなので、正月早々キングコングくらいの声量で喋ってきたりするのかなと思うと少し寂しくなる
誰かが言っていたのだが年末はよく人が死ぬらしい
僕の友人のおばあちゃんも年末に死んだ
友人が学校で授業を受けている時、学校に親から「おばあちゃんが大変。すぐに戻ってきて
ほしい」と電話がかかってきた
友人はすぐに学校を早退して自分の家の向かいにあるおばあちゃんの家まで走った。
おばあちゃんの家までたどり着き寝室にかけこむと既に友人の母親や大人たちがおばあちゃんが入っていると思われる布団を囲んで黙って立っていた。
布団の中のおばあちゃんは頭まですっぽり掛け布団を被ってそこに横たわっていたらしい
友人が立ち尽くしていると、友人の母親が「顔を見てあげ」と言って布団をめくるように言ってきた
友人が布団を開けるとおばあちゃんはうつぶせで顔がまったく見えない状態で死んでいたらしい
友人が呆然としてると、友人の母が悲しそうに「うつぶせじゃなかったらもうちょっと生きてたね」と言ってきたという
うつぶせが原因で死ぬなんて赤ちゃんだけの死因だと思っていたのでこの話を聞いた時は
とても驚いたけど死の冷え切った唐突さと真逆の抜けた感じが何かの真理っぽくて僕はこの話を結構気に入っている
年末に死ぬと言えば僕のおじいちゃんも確か死んだのは年末とかだったと思う
おじいちゃんは僕が小学校に入る前に死んでしまったのではっきりした記憶はないのだけど
僕が赤ちゃんのハイハイの目線でこっちに向かって
「銀次郎。銀次郎」とニコニコ近づいてくるおじいちゃんを見ていたという映像が鮮明に焼き付いている
「銀次郎」というのは僕の名前を決める時の最終候補まで残った名前らしく
おじいちゃんと僕の両親とで「銀次郎は良いんじゃないか」と盛り上がって可決されそうになったのをおばあちゃんがすんでのところで止めてくれたらしい
小学生くらいの時に「銀次郎ってどういう意味でつけようとしたん?」と親に聞いたら
「ミナミの帝王の萬田銀次郎」とだけ言われてそれ以上は教えてくれなかった
たぶんそれ以上の意味がなかったんだろう
しかし「銀次郎」を初めての名付けで最終候補に残すようなセンスの両親だから、僕の今の下の名前も少し変だ
一発で読めないとか無理矢理な当て字とかいう訳でもないしなんなら
色んな人から「いい名前やね」と褒められたりもするのだけど、僕には少しシュッとしすぎてるのだ
それに比べて僕の弟の名前は「新年に生まれたから」という理由で
本当にそのままの名前をつけられていて雑すぎて可哀想なのだけど
容姿が僕と違ってめちゃくちゅ良くて、よく親は「あんたらは名前が逆やったな」と言う
名前を逆にしても成立するような動機で子供に名前をつけるなと思うのだけど名付けをそういう感覚でスパスパやれるというのはすごいなとも思う
もし僕に子供ができたらどういう名前をつけようかというのに
めちゃくちゃ凝っていた時期があってその時大学ノートにバーっと
書き出したり色んな名前を見てみたりしても納得のいく名前は決まらずに悶々としていたのだけど
ある日急に「これだ!!」というのが降りてきた
それは「まふ」という名前で、本当は漢字で「豆」に「踏む」で「豆踏(まふ)」にしたいのだけど
将来その子がはやしたてられるのは目に見えてるし可哀想だからひらがなで「まふ」なのだ
名前の理由は「腐っても納豆として、姿が見えなくなっても豆腐として、もちろんそのままでもいける豆のようにどんな状況でも自分を残せる人になってほしい」という理由だ
これの難点は女の子にしかつけづらいのと、女だとクリトリスがあるから将来娘の彼氏にそれを行為の最中に言葉責めとして利用される恐れがあるということだ。そんなことを知ったら殺してしまう
というか自分の娘に彼氏ができるというのを想像するだけで嫌な気持ちになる
大事に大事に育てた自分の娘を知らない男にとられてSEXされた上に娘もその男の事が好きなのだとてもじゃないが祝えない。世のお父さんはすごい
落ち込んできたのでここで終わります