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中学入学。ギャグが産んだ悲劇

お疲れ様です。前回のお話は小学生に至るまでのところでしたね。今回は少しづつ小学生になってからのことをお話させていただきます。小学校に入り「椅子を頭の上にあげて運んではいけない」や「ひらがなは皆ある程度知っている」といった様々なカルチャーショックを受けていくこととなった僕はその他様々な面でも困難にぶち当たりました。まずは「いただきます」のルールです。目の前に給食があったらあるもうすぐに食べ始めてよいという認識で生きていた僕は号令を待たずに食事にむさぼりつくので、狼のような扱いを受けていました。「先生、渡君が手を合わせる前にご飯食べてた」とチクられて先生に怒られ「なんでいただきますを待てへんの?」と言われた時も、言葉を知らないので気持ちを説明できず「うう・・」と唸りながら先生を睨みつけていたのを覚えています。

そのような挫折を多々繰り返し、さらに保育園時代は圧倒的な運動量のおかげで太らなかったのですが、小学校に入りまったく外で遊ばなくなりゲームボーイか本を読むだけの生活になったせいで僕の体重はブクブクと増えてゆき、紅顔の美少年時代の面影はどこへやらで、僕はすっかりまるまると太ってしまいました。プロ野球チップスやビックリマンチョコといったお菓子のついたスナック菓子にはまったのも大きな原因の一つだったようにも思います。

おそらく僕の元々の性格は2枚目で皮肉を言ったりする性格だったのですが、太った事が原因で大きく性格を方向転換することをよぎなくされました。例えば「長州小力のモノマネをやれよ」と言われて、嫌がっては小学校の中では生きていけません。僕のほかにもとんでもなく太った同級生がいたのですが、そいつはあまりにも太りすぎているためにマスコットとしての地位を周りに与えれていて「かわいい」「ぷにぷにや」などと何をすることもないまま、周りの支持を得ていました。僕はというとそこまで太ってもいないのでマスコットの位置にもいけず、とにかくアクションをおこさないといけないデブということになりました。ただ長州小力さんのダンスをモノマネをするだけではなく、急に動きを止めて、いきなり再度やり始めたり「やらへん。やらへんって」などと言った後に満面の笑みでダンスをするなどといった工夫をこらしてダンスをすることになります。それを見て笑っている巨デブのマスコット君に、怒りを感じていた事を覚えています。しかし僕の小学校は平和だったので、特にそこから大きな何かに発展するようなことはなくある程度楽しく6年間を過ごせました。

そしてそのまま僕は公立の中学校に進むことになります。この中学校というのが近隣の3つの小学校からなる中学でして、このうちの一つが当時、めちゃめちゃに悪い小学校だという噂がありました。前回の記事で僕が住んでいた団地というのも、その地域にある団地でして、このままいたらその小学校に僕が通わないといけなくなるというのを親が心配してくれて引っ越してくれたというのも引っ越しの一因にあったというほどでした。しかし僕は当時「そんな怖いって言ってもそこまで大したことはないやろ」とそこまで重大に考えていませんでした。

そしていよいよ入学式の日、クラスに集められた僕らはまず全校集会のために体育館に移動することになりました。まだ誰も仲良くなく、小学校から同じ友達たちとこっそり話したりするぐらいで皆緊張していました。ぞろぞろと校舎を出て体育館に繋がっている渡廊下を歩いている最中、向こうで大騒ぎしている生徒がいるのが目に入りました。

そいつはなぜか先生3人ほどに囲まれながら、パンチやキックなどを先生に向けて繰り出しまくっていました。明らかに僕らの小学校にいなかったタイプで、毛色が違いすぎる驚きました。僕らが横を通り過ぎる時に、そいつは「殺す!殺す!」と言いながら先生に向かってパンチを繰り出していました。身体能力が高いように見え、先生もかなり苦戦していたのですがさすがに大人3人には勝てないと見え、そいつは地面に抑えられながら「グアアアアア!!!」と吠えていました。今日あったばかりの先生になぜそこまで全力で怒れるのかというのも疑問でしたし、先生に向かって躊躇なく暴力をふるうんだというのもひどく驚きました。
僕はそいつと同じクラスじゃなくてよかったという喜びを噛みしめて、次にとにかく3年間そいつにだけは目を付けられないようにしようと心に決めました。

その日の休み時間、僕は同じクラスの小学校の頃からの友達と喋っていました。そいつとはそこまで仲良くなかったのですが、お互い心細さからくるうっすらとした繋がりがあったのを覚えています。すると、そいつが急に僕の知らないやつに「こいつおもしろいねんで」と僕を紹介しました。そいつは僕らの学校でもなく、悪い学校でもなく、もう一つの小学校の出身の生徒でした。急に「おもしろい」と紹介された僕は慌てて、そんなことないでと言いましたが、紹介されたそいつは「なんでなん!おもしろいねやろ!」と言ってきます。僕は何かやってくれと繰り返し言うそいつに困って、苦し紛れに咄嗟に手に持っていた消しゴムをゆっくり持ちあげ大声で「僕らの産まれてくるずっとずっと前にはもうアポロ11号は月についたっていうのに~!」と言いながら、消しゴムを宇宙船に見立てて動かし、ついたっていうの、にぃ~のところで消しゴムを頭に着陸させるというギャグをやりました。

その咄嗟のギャグは、なんとか笑ってもらうことができました。というよりかなり笑っていました。「もう1回やって」「もう1回」などと言われ何度もそのギャグをやりました。めちゃめちゃ宇宙船を遠くにやって、にぃ~で急に頭に着陸させるというアレンジなども加えて披露してまた大いに笑わせたりしてだいぶ調子に乗っていました。するとそいつが「これ須藤君(仮名にしてあります)に見せにいこ!」と言って僕の腕を掴んで走り出しました。「須藤君って誰?」と僕が聞いても「ええから!はよこい!」と言って走り出して止まりませんでした。

ついたのは階段を下りて4組の扉の前でした。「入れ」とそいつに言われた僕は、訳がわからないまま扉を開けて入っていきました。僕が入ると教室中はいっせいに僕に注目しました。当たり前です。初日にいきなり知らないデブが入ってくるのですから。僕も緊張して何もわからない状態でクラスを見渡すと、一番後ろに不良のような見た目の人たちがたまっていて、その真ん中に先ほど先生たちと大立ち回りをしていたあの男が立っていました。そいつはすでに鋭すぎる目でこちらを睨みつけています。終わった、と思いました。ここで下手なことをして目を付けられたら大変なことになるすぐに逃げないと、と思っていると僕をここまで連れてきたやつが「須藤君!こいつめっちゃおもしろいねん!」と後ろの真ん中の男に向かって手を振りました。そいつが須藤だったのです。須藤君は「は?」と大声で言って、なにやら不穏な空気を全開に出しています。僕を連れてきたやつは、その態度が何やら思惑が外れたようですごく焦った雰囲気を出していました。これはあとでわかることなのですが、そいつは他校ながら
小学生の頃から須藤と少し付き合いがあって、この中学校進出の際に距離をぐっと近づけたいという思惑があったようです。つまりは僕を献上品として差し出して須藤のご機嫌をうかがおうとしていたという訳です。その思惑が少し外れて「は?」という不機嫌な須藤君を引き出してしまったのですから、当然焦ります。そいつは僕に「はやくギャグやれ」と小声で言ってきました。

僕はぬるま湯のような小学校からこんな地獄のような場所に来たことを恨み、ここで失敗した場合に、これから3年間続くであろう想像できないほど長い地獄にも思いをはせながら、高速で頭を回転させました。走って逃げる、これは失敗する可能性が高いです。そもそも逃げてもクラスに戻るだけなので、またこいつに連れ戻されるに決まっています。さらに「逃げる」という行為は本能的に危険だと察知していました。嫌だと断る、これも通用しないように思いました。先ほどクラスの中では何度も披露してしまっていたので「さっきはやってたやろ」と詰められるに決まっています。そうなった場合須藤たちも「見せろ」ということになり
そんな状況でアポロを披露しても最悪な結果になることは目に見えています。

僕はたくさんの情報を処理しながら、一瞬で、とにかく全力でアポロをやるという判断を行いました。

4組の全員が僕を見ている、須藤たちももちろん見ている中、僕はとにかくやぶれかぶれでアポロを熱唱し、消しゴムを頭に着陸させました。あんなにアポロの一節が長く感じたことはありません。歌い終わって、ほんの少しの沈黙の後すぐ、後ろの須藤が「うるさいんじゃ!!!!」とめちゃめちゃ怖いトーンで叫んできました。その叫び声は全身の毛穴に響くような声で、今まで明らかに僕が出会ったことのない生き物だと痛感させられました。とりあえずこれでもう終わった、あとは逃げて、3年間おとなしく過ごそう。そう心に決めた瞬間、「おい、お前こっちこい」と須藤に呼ばれました。ライオンだらけの檻の中にプロ野球チップスで太った豚が招き入れたのです。横の僕を連れてきた男は目を下にやって無視しています。ふざけるな、と強く思いました。「こいよ!!」と再度叫ばれ、僕は意を決して向かうことになります。この日から結果的に3年間続く須藤と僕との駆け引きが幕を開けたのです。

これの続きはまた後日話します。ありがとうございました。

# by akuta-seiryou | 2020-04-20 12:33 | 生きた記憶

1〜6歳の家庭の話。小学校初日。弟の誕生。


先日は僕の16歳までの出来事を保育園をメインに綴りました。今回はそこでお話しできなかった僕の家族の話をしましょう。現在の僕の家族は4人家族、父母僕弟の4名なのですが、弟は僕が小学校に入ってから産まれるので、6歳までは3人家族でした。僕が小学校に入るまでに住んでいた団地はとにかく荒れていて、下の階には痴呆症なのかベランダで大便をしているおじいさん、隣の部屋にはでかい黒猫を飼育していて僕たちのベランダに勝手に放してくるおばあさん、団地の組合のお金を盗んで逃げたおじいさん、それをボコボコにしていた他のおじいさんおばあさんなど、どうしようもない所だったらしいです。僕が決定的に覚えているのは、近所のスーパーにお母さんと買い物に行った際、同じ団地に住むおばあさんが僕の母に向かって「あんた、子供が可愛いねやったらはやくあの団地から出て行きや」と言ってた事は覚えています。悪魔に乗っ取られている村のキャラクターのセリフみたいですが、実際にそれくらいひどかったんだと思います。そのアドバイスを受け、ちょうど僕が小学校に入る前にその団地からは引っ越すのですが、それまではずっとその団地に住んでいたということになります。


僕のお母さんは奈良県育ちの奈良県産まれ、生粋の奈良っ子です。僕の父親は九州出身で紆余曲折を経て奈良に流れ着きました。昔お父さんが経営していたゲームセンターにお母さんが客として通っていて、テトリスを無料でやらせてくれたことで恋に落ちたという話と、僕のお母さんが働いていた飲み屋さんに父親がボーイとして入っていて、そこで恋に落ちたという2つのパターンの話をどちらも母親から聞いたことがありますが、どちらが正しいかはわかりません。ちなみに父親の経営するゲームセンターは、子供にクレーンキャッチャーの景品をあげすぎてすぐ潰れたらしいです。

保育園時代の家族全体を振り返ろうと思ったのですが、早々にあまり書くことがなくなったので、小学校時代を思い出しながらつらつらと書いていこうと思います。


前回の記事でも書きましたが、僕の保育園はひらがなを教えたり、行儀などは特に厳しく教えないという教育方針だったため、僕は何も知らないそのままの姿で小学校というルールの中に放り込まれることになりました。入ってすぐに驚いた事は、周りのみんながすでに文字をかけるということです。「あ」や「い」や「う」や「え」などを書けるのは当たり前で、中には自分の名前を全部ひらがなで書けるという才気走る子もおりました。僕は当然みんな何も書けないというところからのスタートだと思っていたので、自分が未開の地から来た文明を知らない子のように思えて辛かったです。これを書いてる時に思い出したのですが、教室の後ろで「これ書けるか?」とひらがなを言われて「かけるか!!」て突っ込んでいたような記憶があります。もしかしたら人生で初めてのツッコミは「かけるか!!」だったかもしれません。さらに小学校でのカルチャーショックは続きます。掃除の時間での事です。僕の保育園では、椅子は頭の上に持ち上げて運ぶことが許されていました。みんな椅子を頭の上に持ち上げて走り回りながら掃除をしていたのです。僕は楽しいし便利だしそれに何の疑問も持たず、小学校でもさあやるぞと椅子を頭の上に持ち上げて移動させようとした所、先生がすごい形相でやってきて「渡くん何してんの!!」とものすごい勢いで怒られました。僕は何を怒られているかわからず、ぼおっと立ちすくんでいると「その椅子を下ろしなさい!!」と続け様に怒鳴られました。僕はその事で初めて、頭の上に椅子を持ち上げて運ぶのはおかしい事なんだ、ここではこれが通用しないんだ、と理解しました。しかし、自分の通っていた保育園ではこのように椅子を運んでいた、ということを説明すると「そんなんあるわけないやろ!!嘘ついたらあかん!!」と僕の保育園での常識を初日で否定されてしまいました。そこから何度話しても頭の上で椅子を持ち上げて走り回りながら掃除をする保育園があるという事実をその先生は受け止めてくれませんでした。文化の違いというのはここまで大きなものなのかという悲しみに包まれたのを覚えております。


それがきっかけでなのかはわかりませんが、僕は、よく大人に嘘をつくようになりました。今思えば不気味な話ですが、先生に「2階の男子トイレのバケツに水を入れる蛇口から水が出なくなってましたよ」と報告して「ほんまか?観に行こ」と見に行くのについて行き、本当は壊れてもいないので当然水は出るのですが「出るやんか」と先生が言うのに対し「あれ?さっきはでなかったのに。。」と言うというような誰も得をしない嘘を好んでついていました。自分の嘘で大人が動くというのが気持ち良かったんだと思います。さらにこれは後悔している嘘なんですが、父親と2人で買い物から帰っている時に、急に(ここで僕が実は前学校でいじめられててつらかった..と言ったらどうなるんだろう?)と思い、父に向かって寂しそうな演技すらしながら「実は、前ちょっと学校でいじめられてて、相談とかできひんかったんやけど、辛かった」と言った事がありました。僕の予想としては、父は何か笑いながら「そうなんか。可哀想や」くらいのことを言って今度遊戯王カードを買う約束などをしてくれるのかなと思っていたと思います、というか遊戯王カードを買って欲しかったために同情を誘おうとしたような気がしてきました。とにかく酷い話ですが僕がそれを父にしかけた、すると父親は、急に立ち止まってボロボロ泣き出して「そうなんか。ごめんな。気づいてやれへんかった」と言って何も喋らずに頭をずっと撫でてきました。僕は、いつもヘラヘラしている父親がそんな感じになるとは全く思っていなかったのでこれはえらいことになってしまったという罪悪感と後悔で大変なことになってしまい、涙がどんどん出てきてしまいました。父親はそれを見て「辛かってんなあ」と言って抱きしめてきてしまい、それにまた後悔してどんどん涙が止まらなくなってしまい、2人でそのまま家に帰ってお母さんが「どうしたん!!」と聞いてきて父親が事を説明、母親も号泣してしまい、もう何も言えなくなってそこからあまり嘘をつくのはやめようと思った記憶があります。当時の自分を庇うわけではありませんが、保育園時代はスリムだった体型が小学校に入って爆発的にふくよかになってしまい、今まで言われることのなかった「デブ」「豚」というセリフに傷ついていて、自分でもわからないうちにSOSを出していた可能性はあります。人間は複雑な生き物です。


小学校時代に入ると弟が登場してきます。僕は自分より年下の家族という位置づけの「弟」という存在に一撃で心を射抜かれてしまいました。学校から帰ったら毎日ベビーベッドに寝ている弟を見に行って喋りかけて、こんなに可愛い存在があるのかとびっくりしたのを覚えています。弟は順調に大きくなってゆき、一緒に外で散歩もできるようになっていきました。兄弟というのは少なからず似ているものですが、僕と弟は似ている所があるなと感じる部分がいくつかありました。僕は小さい頃(これをしたらどうなるんだろう)という気持ちがきたらそれをやらずにはいられない、というような時がありました。


例えば鉄棒の棒のところに座ったまま(このまま後ろに倒れたらどうなるんだろう)と思い、危ないだろうというのもわかるけど、どうしても確かめたくなり、ゆっくり後ろに倒れて後頭部を強打し、鼻から口まで一気に鉄の味が広がったという様な経験がありました。確かめたい、という強い気持ちは逆らう事が難しく、ベランダから下の駐車場に向かってゲームボーイを投げてしまいたい、という強い欲求にかられて、ゲームボーイを手にしたままベランダまで出て行き投げてしまいたいという強い欲求と投げたら壊れるし、こんな理由で壊したゲームボーイなら2度と買ってもらえなくなるぞという理性を戦わせて歯を食いしばりながら部屋に戻るということをしていたこともありました。


話を戻して弟と散歩中のことです、弟は一個のものをものすごく大事にするという気質が当時ありまして、その時はどこにいくにもおそらく救急車だったように記憶しているのですが(パトカーだったかもしれません)とにかくミニカーを大事に持っていました。その日も散歩中にミニカーを握ったまま、奈良公演の近くにある「猿沢池」というところに着きました。この池には大量の亀がいるので見応えがあり、お気に入りの散歩場所だったので僕は足を止めて、弟にも「ほら。亀やで」と亀を見せました。弟はその時まだあまりきちんと喋れるような状態ではなかったのですが、じっと亀ではなく池を見つめていました。僕はその時瞬間的に(こいつこの池にミニカー捨てるやろな)と思いました。すると、やはりいきなり弟は手に持っていた大事なミニカーを池に投げ捨てたのです。弟は自分でやったことなのですが、誰かにそれを急に投げられたかのようにきょとんとした顔をしていました。僕はこの感覚はわかるぞ、と嬉しくなって「わかる。わかるぞ」と弟に伝えました。この話を先日弟にしたところ、やはり覚えており、理由としては「急に捨てたくなってん」と言っていました。わかります。


さあ、いよいよ弟が出てきまして、小学校が始まりました。僕はいかにして小学校6年間を乗り越えたのでしょうか、そして待ち受ける地獄の中学時代が来るという事は、まだこの時知る由もありませんが、続きは次回に、書かせていただきます。長い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。またお会いしましょう


# by akuta-seiryou | 2020-04-16 18:55 | 生きた記憶

1〜6歳の思い出

前回の続きでございます。前回は01歳を遡りましたね。子供の頃というのはもちろんあまりはっきりとした記憶はなく、なかなか難しい部分でございますが、人生の続きものとして見ていただいた時に何か後に通じるものがあればと思います。ただやはり記憶が曖昧なのと明確に何歳だと言えないのもあり、あまりここは細かく分けずに小学校に入るまでをざっくりとお話させていただきたいと思います。なので今回は1歳〜6歳のお話ということになります。

僕は保育園育ちなので、おおよそ6年程は保育園にいました。今はさすがに違うでしょうが、当時僕が通っていたその保育園は「子供は裸足で駆け回れ」という教えを文字通りそのまま行っており、園内で靴を履くことはあまり褒めらた行為ではないというような風潮がありました。特に男子の間では靴を履くのは弱いもののやることだという雰囲気作りが完全になされており、靴といえば手で投げて遠くに飛ばして遊ぶ物といった扱いだったと記憶しています。他にも保育園側からの「ひらがなや足し算は学校で習うので今は覚えなくてよい」「喧嘩は気が済むまでしてよい」「先生は呼び捨て、タメ口でよい」といった野性味溢れる教育方針の結果、狼のような子供達がたくさんいました。

攻撃の主な手段は目を狙ったひっかきであり、それが外れるとカウンターで顔を狙ったグーパンチが飛んでいるような喧嘩に、その保育園の中では割とおとなしい方だった僕はいつも怯えていました。今でも僕はよく食にいやしいと言われるのですが、その片鱗は当時からありまして、記憶の中にあるのはまだ年少組の頃でしょうか、給食の時間、まだ僕たちは自分でしっかり座ることができなかったので、小さな椅子にちょこんとした机が設置されている食事用の椅子があてがわれており、それにみんながちょこんと座らされ、それぞれのご飯が机に置かれ食べるというシステムが採用されていました。僕は今でも早食いなのですが、当時からわりかし早食いだった僕は早々に目の前のご飯を食べ終え、ジッと隣の子供の給食を見つめました。その子の机の上の給食はまったく減っておらず、自分の腹が減っていた僕は手掴みでその子の給食を取り、口に運びました。案の定その子はワンワンと泣き出しましたが、それにかまわず僕は手掴みでその子のご飯を掴んで口に頬張り続けました。すぐに先生が気付いてやってきて、僕を怒鳴りつけ、その子に謝らせられました。さらに次の日、前日の件で味をしめている僕は早々に自分の飯を平らげ、隣の席の子の給食に手を伸ばしました。するとすぐに先生がやってきて、僕の椅子を担ぎ上げ、部屋の奥の方にあったおまるなどを置いてあるスペースの近くに僕を連れて行き、そこに僕を置きました。友達の食事を強奪し続けた僕は、みんなから離れたおまるの近くで給食を食べることになったのです。僕は力の限り暴れました。しかしすぐに2人の先生がきて、片方の先生が僕を抑えながら、もう片方の先生が僕の口に食べ物入れるという人体実験のようなやり方で給食を食べることになりました。それからしばらく僕はその場所で1人捕虜の様にみんなを見つめながら給食を食べていたのですが、その光景はなかなか忘れがたいものがありました。


今の僕を知っている方は驚かれるでしょうが、保育園当時の僕はわりかし痩せていて、よくTOKIOの松岡君に似ていると保護者の間でも話題になる様な美少年で、女の子にも人気がありました。とくにお昼寝の時間になると「今日は私が渡と一緒に寝る」などと女の子が言い合いになる時があったほどですから、その人気は推して知るべしでしょう。中でも「ちえみ」という女の子は僕にとても好意を向けてくれており、僕としても数ある女の子を比べた時にちえみが一番だな、と思っていたのもあり、お互い「将来僕はちえみと結婚する」「将来渡くんと結婚したい」とみんなの前であれどこであれ言い合っていたような仲でございました。人生で初めて(それ以降は高校の野球部のマネージャーからの義理でもらうチョコレートまで一つももらえないことになります)のバレンタインチョコレートもちえみから貰っており、可愛い包み紙に入ったキティちゃんのハートマークのチョコレート貰った時はとても嬉しかったのです。しかし、これも今にも続く大事なものを少しづつ食べて挙句には腐らせるという僕の悪癖により、何ヶ月も経って冷蔵庫の奥から白カビだらけのかけたハートマークのチョコレートが見つかった時は幼いながらに「綺麗なものは永遠ではない」と感じたのを覚えております。ちなみにその「ちえみ」とは保育園を卒園して以来全く会っておらず、小学56年生くらいの時の同窓会で再度出会うのですが、その頃には僕はもうブクブクに太っており、むちむちと肉がはみ出た半袖と太く白い足がぶくりとはみ出てる半ズボン、鍵っ子のため首から鍵を下げた僕が近づいてきたのを見て、ちえみは心底ショックを受けた顔をしており、僕が「久しぶり」と声をかけても「うん」と言ったきり走って女子の輪の中に逃げこまれました。あの日僕を奪い合った女達は一切僕に見向きもしておらず、結婚を誓い合ったちえみですら全てを忘れたかのように振る舞っている現実のあまりの残酷さに空回りした僕がみんなを笑わせようと池に飛び込んだのですが、タコのモノマネを得意とする新谷が笑っているのみでちえみを始めとした女子達は冷ややかな視線を浴びせてきました。その会の終わりくらいにやけくそになった僕が完全に嫌がらせのつもりで「昔僕と結婚するっていってたよなあ!」と叫んで本気で睨まれて以来、ちえみとはあっていません。ちえみさん、もし見ていたら初恋の思い出を最低のものにしてしまってすみません。


話が逸れました。保育園時代の話を書いているとなかなかの文字量になりましたね。とにかく僕はそういう保育園で育ちました。ひらがなや言葉や計算を覚えなくてよい、大いに暴れてよいという教育方針のおかげで小学校に入って様々な問題に衝突するのですが、それはさらに先の小学生編でお話しましょう。次回は1〜6歳家庭の話編をお語りしたいと思います。それでは本日はここで失礼いたします。またお会いしましょう。さようなら。


# by akuta-seiryou | 2020-04-14 06:21 | 生きた記憶

0歳〜1歳


お疲れ様です。ガクヅケ木田、本名を渡光世と言います。世間はコロナウイルスで大変です。世間はと書くと自分はまったく関係ないという雰囲気になりますが東京に住んでいる自分も、もちろんコロナウイルスの煽りを受けており、その一つとして4月21日に予定されていた単独ライブが延期となりました。そのほかはライブが中止になったりというくらいで、とにかく自宅に篭るというだけなのですがこれも暇ですがしょうがありません。ブログを更新するしかないといったところです。

自分は中学生の頃は不良が怖くてよく学校をサボりがちだったので、どちらかというと自宅にいるというのは好きなのですが、こうも続くとしんどくなります。

そんな日々の中、僕にはブログがあるのでせっかくなので多い頻度で更新しようと思いました。週に一回自主ラジオを撮っているので、そこで話したりお笑いライブで話したりしてるうちに文章欲みたいなものが薄れていて、あまりブログを更新していなかったのですが、元々僕は文を書くのが好きです。高校生の時夏休み、バイト先のスーパーの休憩室で原稿用紙140枚ほどの長編小説を手書きで書いて新人文芸賞の締切日ギリギリに友達のバイクの後ろに乗せてもらい郵便局に提出しにいった思い出があるほどには好きでした。内容はというと、よくあるような暗い邦画の設定の寄せ集めだったような記憶があります。その小説をお母さんにこっそり読まれて「ラストで泣いたよ。なんでCD君はあの島から帰ったのかな?その後が気になります」と手書きの小説の感想をいきなりメールで送られて以降、あまりのショックで小説など二度と書くものかと心に決めていました。

このブログでは僕の人生を1歳の頃から覚えてる限りできるだけ追っていきたいと思います。暇なので振り返りましょう。

ここからかなり余談なので読み飛ばしてくれて大丈夫です。noteって知ってますよね?お金がもらえるブログなのですが、「あそこで記事を書けばいいじゃん」とよく言われるのですが、いろんな理由があって嫌なんですよね。一つが僕はずっとこのブログを使っていて、それを捨ててnoteに移行することの気持ち悪さ。なんだかお金を出されたら思い出を捨てる人のようにうつりますよね。不義理なイメージといいますか。昔から一緒にいた相手がいるのに、新しく急にお金をくれる人がでてきて、速攻でそちらに飛びつくみたいな感じがします。それが少し嫌。あとはお金をもらっても大丈夫な文章を書かないといけない、というのが気持ちが重くなります。別にこのブログは勝手にやってるので「池に餅が落ちました」とだけ書いても、「池に餅が落ちました 26歳 女」とだけ書いても、読んだ人が「まったくつまらないね」と思うだけで済みますよね。でもnoteで「池に餅が落ちました 26歳 女」とだけ書いたら、「こいつこんなクソほどつまらない内容の、というか内容も何もない文字だけで、いくばくかのお金をもらおうとしているの!?」て思われます。それがしんどいです。僕は「池に餅が落ちました 26歳 女」も「エビが余りましたが、食べました」も自由に書きたいんです。その権利を守りたい。でもやはりお金が貰えるというのは嬉しいので、ルームシェアしてるメンバーでnoteを作っておりそこはみんなで記事を更新したりして生活費にしたりしてます。それはグレーです。なのでこのブログは僕の完全な自由、誰にも何の文句も言われません。1円も貰わないのですから。なんでもしていいですよね。「ゴミ箱の中に説明書が落ちて困りました」。大丈夫ですよね。

読み飛ばしてくれましたかね。ではさっそく今日は0歳から1歳の頃の記憶を書いていきたいと思います。といってもほぼ、ほぼほぼないです。ただ、これは確実に覚えているものがあり、これはまだ記憶の目線が低いので僕がハイハイの頃だと思うのですが、僕のおじいちゃんが「ほら、こうすけ、こっちこい」とおじいちゃんの部屋から出てきて、僕が(こうせ なのに)と思ってたという確かな記憶があります。

冒頭でも名乗りましたが、僕の本名は渡光世と書き、わたり こうせ と読むのです。これは後から知ることなのですが、おじいちゃんは僕の名前を「こうすけ」にしたかったらしくずっと「こうすけ」と呼び続けていたんですって。なので僕の記憶とも一致します。子供はよく覚えているというのがありますが、たぶん本当だと思います。「こうすけ」と呼びれる違和感は確かにハイハイの時の僕にもあったのですから。

自分が覚えている記憶で0〜1歳のものはこれしかおそらくないですね。最近神田伯山さんの19席の講談を聞いて自分の人生を講談チックに0歳から書いていくみたいなイメージもあり、書き始めたのですが、冒頭からかなりつまらないですね。おじいちゃんが自分の名前を間違えていた、という話のスタートはお客様の心を掴めるのでしょうか?
少し反則になりますが、まだ0歳未満の頃のエピソードならあります。僕はお母さんのお腹の中にいる時、何度エコー写真を撮ってもずっと股間を隠すように写っていたらしくちょうど男か女かわからなかったらしいです。有名なギャグのようなポーズを延々に繰り返してエコー写真に写っていたというのですから、少し面白いエピソードではないでしょうか?あとは産まれたときは小さかったけど、赤ちゃんを成長させる保育器に入れたらでかくなりすぎてしまった、というポケモンの進化みたいな話もあります。これも少し面白いのではないでしょうか?

0歳未満の面白い話が二個出てきましたところで、次回以降のお話は、また明日以降ということで、それでは失礼させていただきます。楽しみにしていてくださいね。

# by akuta-seiryou | 2020-04-09 19:41 | 生きた記憶

僕らの家におけるルームシェアリビング考察論

今僕は引っ越して芸人5人で住んでいます。僕、サスペンダーズ古川さん、フェー篠原さん、春とヒコーキぐんぴぃさん、舎弟のならたの5人です。僕含めて5人の顔も姿もわからない方が大勢だと思いますが、本気を出して探してみてください。情報過多社会なので3分もあれば全員の情報を集めることができてしまいます。

この家のそもそもの始まりは、栗原君という芸人が主催したあるお笑いライブでの打ち上げの席から始まりました。

打ち上げというのは基本的にまあ喋って飲んでというか、ある程度リラックスした楽しいものなのですが、僕はこの5人と席を囲んでいる時にかつてないほどの心地よさに包まれたのです。非常に新鮮な、それでいて親しみが深い心地よさでした。まるで家の中で部屋着に着替えて酒を飲んでいるような感覚に襲われた僕は「もうこれは住むしかない」と思い、提案すると、そこからは流れるように5人で一緒に住むことになりました。そして予想通り、いざ住んでみると最初は恐ろしいほどにストレスがありませんでした。

ならたは「一人暮らしだと思うと寂しすぎておかしくなっていたと思う」と言っていましたし、ぐんぴぃはしきりに「みんながいると楽しいなあ」と言います。篠原さんは病み上がりすぐにも関わらず「みんなに会えなくて寂しかったから」と療養先の実家からすぐに帰ってきてリビングに延々と居座り三國無双とパワプロを交互にやり続け、さすがに顰蹙を買っていましたが後日その件に対する話し合いを行い5人の絆が深まる一つの出来事として収まりました。古川さんはよく「俺はもう今日は寝るんですよ」と言いながら3時までリビングにいます。
皆それぞれ人恋しいんだと思います。僕も僕で深夜によく散歩にいくのでそれにならたや篠原さんやぐんぴぃに付き合ってもらったりなどをして楽しく過ごしています。

しかし次第にリビングの魔力、全てのやる気を奪う引力のようなものが、僕たちをダメにしてきていました。
同じような見た目の人間が集まるのでストレスがないのです。いつまでもいれてしまう。学生時代にグループが自然に分かれていたと思うのですが、そのような感覚です。誰に対しても無理をする必要がなく、かっこつけることなく、肘を張らなくていい。
僕が一度リビングで皆といる時に「なんだか子供だけで住んでるみたいですね」と言うと皆が目を開きワハハハと笑い、手に持っていた缶酒をぐいと飲んでいました。その光景が今でも脳にこびりついています。子供は酒なんて飲みません。しかし僕は、いえ僕らにとっては確かにリビングは何のストレスもない、誰にも怒られない子供に戻ったような感覚を味わえるオアシスだったのです。ただ、僕らが盲点だったのはそこが本当のオアシスではなく僕たちが意図的に作り出したオアシスだった点です。

仕事や様々な業務に疲れた人はよく「旅行に行きたいなあ」と言います。そして実際に旅行に行く。家族や気の置けない仲間と何泊かの旅行、皆はそこで英気を養い、また日常に戻ります。しかし旅行を年がら年中続けている人がいるとすると皆からいぶかしがられることでしょう。旅行した先で仕事をしている、旅行記事をメインに書いているライター、など何か理由がないとそんなことは許されません。旅行は大人が作り出した意図的なモラトリアム的期間だと思います。何もしなくていい時間をわざとスケジュールに入れることで、気を引き締めてまた仕事に戻れる。そういった時間なのです。そういった感覚を踏まえると、あのリビングはもはやリビングではなくオアシスやリゾート、しかしそのどれもが僕たちが意図的に作り上げたモラトリアムリゾートであり、モラトリアムオアシスだったのです。

僕たちは全員がバイトをしている状態です、そして全員がお笑い芸人を名乗っているので、つまりは自分の才覚を何とかしてお金にしたいと思い生きている、そのはずなのです。

それがこのリビングにいると、居心地が良い。リゾートなので当たり前です。水着姿の女性の代わりに自分の見た目と似たような男がたくさんいますが、それはそれで心地が良いです。しかし僕たちは毎夜毎夜こんなリゾートにいてはいけないのです。

僕はこの家に住んでから、ネタ前に緊張するようになりました。
それもネタ前といっても本当の直前、暗転した状態で舞台の上に立ち、あと数秒でコントが始まる、という時に緊張するようになったのです。自分のすぐ前には100人ほどの人間がいて、今から自分が何かをやって笑わせないといけない。そういう状態の時にリビングの姿が頭に浮かびます。リビングに敷いている布団の上で崩れ落ちたように寝ているならたやぐんぴぃ、部屋着のままで無心にパワプロに打ち込んでいる篠原さん、ズボンがずりさがって半分尻が出ている状態であおむけに寝て、ただリビングの天井を見つめている古川さん、このメンバーの姿が脳裏をよぎり、あんなところから出てきた自分がこんなに大勢の人の前で何ができるというのだというような気分になります。これはこのメンバーを下に見ているという意味ではなく、おそらく向こうから見ても僕も同じですし、というか5人等しく同じです。だからこそそんな自分が何ができるのだと思ってしまいます。この前その状態でネタをして、ウケてびっくりして感動しそうになったことがありました。
これはやはりリビングはあくまで適度にしなければいけない、そう思うには充分すぎる出来事でした。

そしてこれは本当に最近の出来事なのですが、とうとう僕たちのもとに管理会社から連絡がきました。「夜中にうるさいという連絡が頻繁に入っている」という旨の連絡でした。これは本当に反省すべき出来事で、毎晩行われる子供だけのモラトリアム期間にとうとう終止符が打たれました。先ほど僕が述べたリビングオアシス論の前後くらいのタイミングで、メンバーの古川さんもしきりに気にしていており「リビングにいてはダメだ、本当にダメになる」と言っている姿をよく見かけていました。古川さんから他のメンバーに対して過激に統制しようとする動きもちらほらとみえました。ただ僕は言いたいです。リビングがある限り、僕らはリビングとうまく付き合うしかありません。リビングをなくすことはできません。もちろん夜中に大きな声をたてて喋るなどはもってのほかですが、全員が良識を持ってリビングと付き合っていく、意図的なモラトリアムリゾートだということを意識した態度が必要なのではないでしょうか。全員が幸せになるための家として、もう一度この家を再生させたい。僭越ながら、僕はそう思います。

このリビングに関しては様々なことをまだ書けますし、僕は不勉強です。それでも日々の努力をおこたることなく、一人の人間として立派になるための貴重なステージなのではないか、と思います。本日はここで筆をおきたいと思います。

僕らの家から なるべく全員に愛を込めて 2月3日 木田

# by akuta-seiryou | 2020-02-03 22:47 | 日記