皆さんはだいぶ前に囲碁ブームがあったのを覚えているだろうか?
週刊少年ジャンプで「ヒカルの碁」という漫画が連載され、そこから火が付いた囲碁ブーム。
当時小2の僕もヒカルの碁を読んで「僕も囲碁をやりたい」と思い、母親に囲碁教室に通わせてくれと頼んだ。
それまで僕は通っていたスイミング教室も「遊びの時間と皆の輪に加われないから辞めたい」と行くたびに泣いて母親を困らし最終的に自分のプールバックをスイミング教室への移動中の車から捨てるなどのミニダイハードみたいな事をして辞めたり、母の友人の勧めで空手道場に見学に行った時も師範らしき人に
「見学と言えども帽子をとって腕を組んではいけないぞ」
と言われたのがショックで入会を辞めたり、親に甘やかされて育てられた精神の脆さもろ出しでとにかく習い事がまったく続かなかった。
それでも小2の僕が「頼むから囲碁をやらせて」と言ってくる。母親はその時渋っていたらしい。
だいたいスイミングも空手も元は僕が自分から「やりたい」と言い出したものだし、
通信教育の子供チャレンジもやっていたのだが、付録につられて入会しては1度も教材に手をつけずに辞めてまた次の付録につられて「今回は本当にやる」と頼み込んで契約してもらい、付録の目覚まし時計を手に入れて辞めて・・といったのを春夏秋冬とだいたい1年に4回は繰り返していた。
なので今回も最初だけだろうと母親はあまりとりあってくれなかった。
僕はその時囲碁熱が凄かったので何度も何度も親に頼んだ。1週間くらい頼んだ時、母親が根負けしたように
「わかった。じゃあまず見学にいこか」と言ってきた。
その時から押せば何とかなるというのをわかってたので、やっとかと思いながら僕は頭を下げて電話帳で囲碁教室を探している母の横に座った。
その結果、僕の家の近くに2つの囲碁教室が見つかった。
1個目は子供がたくさんいて子供に囲碁を教えるようにできている教室。
2個目はおじいさんばっかりで皆ずっとタバコを吸いながら打ってるようなところで、そこは囲碁教室というより碁会所のような場所。
僕は2個目の教室に通わせてくれと親に頼んだ。同い年の子供たちがいっぱいいて、そこに入ってくのが嫌すぎたのだ。
親は2個目の教室に僕を連れて行って、出てきた代表らしいおじさんに「この子を教えてもらえますか?」と頼んでくれた。
おじさんは僕の顔をじっと見て「もう最近は子供を教えるのはやめてたんですが、この子は何かありそうですね。やりましょう」
と僕を引き受けてくれた。
僕はその碁会所で様々なテクニックを身につけた。
技術的なものももちろんそうなのだが、いわゆるハメ手と呼ばれる相手のミスを誘発するような打ち方や、
相手が打ってる間に碁石をジャラジャラ鳴らしてプレッシャーを与えたり、いきなり大きな音でイミのない場所に石を置いて威嚇してみたり、全部碁会所のタバコを吸ってお金をかけて囲碁をしてるおじさんたちから盗み取った技だ。
そのあとにも1,2人ほど子供が入ってきたから、僕に特別才能があったからとったわけではないというのはわかったのだが小2で囲碁を初めて三年間で僕は6段くらいまで成長した。
そして小6で僕は囲碁の団体戦の大将として全国大会に出ることになった。
全国大会に出るには地方予選で5回のリーグ戦を5回勝つ必要があるのだが、僕はさっき書いたようなテクニックに加え大会では45分の持ち時間があって時計を使わないといけないというルールを利用して負けてる試合でも相手の時間切れを狙う手段などで着々と勝ち上がった。
そして全国大会にコマを進めて1回戦でよくわからない小4ぐらいの子にボコボコにされて僕は囲碁が嫌になって中学になって剣道部に入るのだが、囲碁にはとても感謝している。
それからの話なのだが、1年ほど前僕の碁会所の先生が死んでしまった。
お葬式に行ったら色々と思い出した。先生に囲碁の問題がとけずに「お前は脳みそが腐ってる」と言われながら3時間ほど泣きながら考えた小3。夏休み毎日通ってもらったアイスなど、でもまあ囲碁をやってあの先生のとこでやれてよかったなと思った。
式の中盤に先生の息子さんがマイクで話しだした。
「父は幸せでした。囲碁をしながら死ねました。皆さんに囲まれ、寂しい思いをすることはなく・・あ、最後は寂しそうでしたが・・しかし」
と言い出して後で聞いたら先生が死ぬ前に当時のおじさんたちがどんどん死んでいったりしていたらしく、それは言わなくていいだろうと思った。
小学生の僕に悪手や小ワザで100目以上の差をつけて勝って、涙ぐむ僕に向かって「あははははは!!!!」とビールの混じったつばを飛ばしながら笑った木村さんも死んだのだろうか? ざまあみろと思ったが少し寂しかった。死ぬ前に200目以上の差をつけて勝ちたかった。