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印象的な日と、僕を助けてくれた芸人さん

前回はヤンキー達から逃げ帰った初日を書きました。本日は印象的だった日に関して書いていこうと思います。

その日から足かけ3年に渡り、須藤君たちとの絶妙な距離感を図るゲームが始まりました。僕の中学校は公立に珍しく私服で登校するというルールだったため、ヤンキーたちは共通のブランドの服を着ていることが多かったです。あまり話しても共感されたことがないので全国で流行っていたのかはわかりませんが「GATCH」というブランドの服と「バナナサーフ」というブランドの服、あとは大きくマリファナの絵がプリントされた下に「GANJA」とデカデカと書かれている服、大きく分けてこの3種類の服を着ていました。それらの服をヤンキーではない人が着ていると「調子に乗っている」ということで問答無用で殴られたりしているのを見るのも日常茶飯事でした。僕としては当時、まったく色気づいていなかったというのもありユニクロで売っていた星飛雄馬の顔がたくさんプリントされた黒のTシャツか、同じくユニクロで売っていた魁!クロマティ高校のメカ沢くんが大きくプリントされた白のTシャツの2パターンを延々と着まわしていて、図らずしも「渡は調子に乗っていなくて良い」という評価を得ることに成功していました。

そんな僕にも冬がやってきます。冬場は寒いだろうからと母親が白いファーのついたダウンジャケットを購入し、僕に与えてくれました。見た目も非常にかっこよく、ぜひ着てみたいところなのですが「ファー」がついた服を学校に着ていくというのは非常に危険でした。調子に乗っていると判断されたら、どんな目に合うかわかりません。なので僕は学校に行くときはファーのダウンは着ずに、下に飛雄馬かメカ沢を着て、上に別の長袖の服を着る。それでも無理なくらいものすごく寒い日はメカ沢と飛雄馬を2枚重ねにするという無骨な方法で暖を取っていました。そんなある日、僕に絶好のダウンジャケットデビューの日が現れることになります。

割愛していましたが、僕は中学の2年から3年になるにつれて本当に嫌な時は学校に行かなくていい、という自分のルールを採用していました。ヤンキーたちが大集合するようなイベントがある日や、自分にとって決定的に嫌なことが起こりそうな予感がする時などがそれに当てはまりました。学校を休んだ日に自転車でTSUTAYAに行き映画を借りたり、家で本を読んだりするのは嫌な毎日を忘れられてすっきりしたような感覚に浸れたのを覚えています。その日は事前の調べで、学年合同の授業がぶちぬきで何時間もあり、さらに先生もあまり関与しないというフリーな日だったので、ヤンキーたちが大いに羽根を伸ばすだろうということが予想されていたので、僕は学校をこっそりと休むことにしました。学校を休む旨を当時よく遊んでいた友達にメールで連絡すると「光世が休むんやったら俺も休むから遊ぼうや」と返事がきました。それも楽しそうだと思い、友達に返事をし、僕の家の下に集合することにしました。僕が着替えて用意をしていると、ふと今日という日に、このダウンジャケットはぴったりなんじゃないかと思いました。学校には決して着ていけないこのダウンジャケット。ヤンキーたちにも誰にも見つからずにこのダウンジャケットを着て自転車を漕ぐ爽快感は想像するだけで素晴らしいと感じました。僕は袖を通し、着こみ、外に出ました。

僕のダウンジャケット姿を見た友達は「めっちゃ強気やん」と笑っていました。そいつはテニス部に入っており、特にヤンキーからどうこうされるような位置づけにはいなかったのですが、僕とも仲がいいということで僕はそいつにヤンキーの愚痴やあれこれを話していたので僕が白いファーのついたダウンジャケットを着るという事の意味を深く理解していました。ダウンジャケットは暖かく、ぽかぽかと芯から温まる体の感覚に、今までヤンキーにおびえてこのダウンジャケットを着なかった自分が馬鹿らしく思えました。ヤンキーにも縛られず自由に生きている俺、もうメカ沢と長袖には戻れません。そうして自転車を漕ぎ、ダウンジャケットにより気が大きくなった僕は友人に「三条通りに行こか」と提案しました。

三条通りというのは奈良の目ぬきの商店街であり、当時で唯一ゲームセンターやカラオケなどがある通りで、当然ヤンキーたちとのエンカウント率も群を抜いて高かったので普段の僕なら絶対に行かない場所でした。しかし今日はヤンキーはいません。ダウンジャケットを着て別人のようになっている僕からの提案に友人はまた「めっちゃ強気やんけ」と笑ってくれていたのを覚えています。自転車で三条通の近くまでやってきました。もう少しするとゲーセンの横のあたりに出るな、と自転車を走らせていると、向こうから自転車の大群が近づいてきているのが見えました。

一瞬にして血の気が引きました。それは遠目から見ても明らかにヤンキーの須藤達でした。僕は当時怯えすぎてめちゃめちゃ遠くからでも須藤達を発見することができる能力がついていたので、友達はまだ気づいていませんでしたが、あの「GATCH」や「バナナサーフ」にありがちな目がチカチカするような暴力的な配色の群れは須藤達で間違いはありません。僕は緊急時ほど頭が冷静に動くことを感じながら、様々な状況の判断を一瞬にして行いました。おそらくはあいつらも学校を休んで遊んでいるのだろう、しかも今自分は白いファーのついたダウンジャケットを着ている、あの人数から判断するに勢ぞろいの可能性が高い、様々な要因を判断し、僕はゆっくりと方向転換をして来た道を戻り、自然に角を曲がるというプランを選択することにしました。僕は友人に「やばい。戻ってまがろ」とだけ伝えて、なるべく遠目に
不自然に見えないように自転車を方向転換し、来た道を戻りだしました。もしかしたら向こうはまだこちらに気づいていなく、このまま逃げ切れるのではないかと淡い期待を抱いたところでした。

後ろから「わたり!!!!!!!!!!!」と外とは思えないような大声で僕の名前が呼ばれました。

最悪だ、終わった、どうなってしまうんだ、とパニックになっていると、やはり自転車で追いついてきたのはほかの誰でもなくニヤニヤと笑っている須藤でした。僕が初手を打てずに固まっていると須藤が「何してんねんお前」といきなり詰めてきました。学校を休んでいるのはお互い様なのでそこを詰められるいわれはないのですが、当然そんなことが言えるわけもなく、何か冗談を言ってこの場を切り抜けないと、と思いました。当時こういう状況に置かれたら僕は「板尾係長」などを見て覚えたてだったシュールな一言ギャグのようなことを発言してけむに巻くという作戦をとっていたので「目覚めたらいきなりここにいた」というボケかどうかも不明瞭な発言をしたら、全てを無視され「なんやねんこのファー!!!!」と僕の最大の弱点を文字通り手で掴んで、そのまま自転車を漕ぎだしました。

僕は三条通りをファーを掴まれたまま市中引き回しの刑のように爆走され、その最中、自分が調子に乗って三条通りに来てしまったことを恨みました。最終的に僕のファーは首から取れてしまって須藤の手にうつり、家庭菜園に投げ込まれてしまいました。「なんで俺のファーが家庭菜園に投げ込まれなあかんねん」となげく僕を見てやりすぎたと思ったのか、須藤は柵を乗り越えて家庭菜園に入っていき、僕のファーを取ってきて「ほら」と渡して帰っていきました。優しさを感じてしまった自分が悔しかったです。

中学校というのは怖いところです。どれだけムカついていても力が強かったり政治力が大きかったりする奴には単純に力やその他諸々の条件でかなわないことが多いです。しかし勝つや負けるではなく被害を最小限に抑えるという生き方を僕は選択していました。おすすめできることではないし、そうしたらいいとも思いませんが、とんでもなく怖いヤンキーにおびえている僕と似たような状況の人は、これくらいの温度感で逃げ切るのを試してみてもよいかもしれません。

更に別の日、須藤がめちゃめちゃ機嫌が悪く、体育をさぼって教室で一人で寝ている時に僕がどうしても教室に入らないといけない時がありました。ここで僕はこそこそと起こさないように動くのではなく、自分から声をかけにいくという行為をとりました。向こうからすると誰も見ていないこの2人の状況でフラットに声をかけてくるという誰に向けた強がりの要素もない自然な僕の行為に、こいつは俺にびびっているのか?いないのか?というのがわからなくなります。こういうのを節目節目に撒いていく。僕はこの絶妙なバランスセンスで3年間を走り抜けたと言っても過言ではありません。

僕は「しんどいん?」と声をかけました。すると須藤は顔をあげて、不機嫌そうに「おお」と言ってきました。これは僕の悪癖なのですが、とりあえず喋りだして、そこから次を考える、という動きをしてしまうことがあります。その時もそれでした。自然を装うには何かを喋らないといけない。僕はなぜか咄嗟に「今日の深夜ダイナマイト関西っていうのがやるから、見た方がええで」と言いました。

ダイナマイト関西というのはプロの芸人さん達による大きな大喜利の大会でして、その日の深夜にたまたま放送されるというのを僕は個人的に楽しみにしていました。須藤はもちろんそんなことは知らないので「は?」と言ってきます。僕は雰囲気がよくないと判断し「絶対見てや!」と言って荷物をとりすぐに逃げました。次の日学校にいくと須藤がこちらに近づいてきて、何をしてくるんだと身構えると「ダイナマイト関西見たで」と言ってきました。

僕はまさか須藤がちゃんと見るとは思っていなかったので驚き「誰が面白かった?」と聞くと「レオちゃん」と言ってきました。

当時関西では割と有名な芸人さんもたくさんいた中、須藤がレオちゃんを上げたことに僕はとても驚きました。「俺もレオちゃん面白かった」と言うと須藤は「おもろかったよなあ」と笑っていました。当然他のクラスメイトはダイナマイト関西の話など分かるわけもなく、僕と須藤のみがレオちゃんを共有することで以前にはなかった絆のようなものが芽生えた感覚がありました。
「レオちゃん」さんというのはピン芸人の方で、現在は「ギャバホイ」さんという名前に改名して活動しており、東京にきてしばらく経ち、ライブでご一緒させてもらうことがあった時に僕は恩人であるレオちゃんさんにこの話をしましたところ、とても優しく「それはよかったねえ」と言ってくださり、嬉しく思いました。レオちゃんさん、現ギャバホイさんは当時から今まで田舎のヤンキーすら射貫くような発想の
お笑いをどんどん見せてくださっています。YOUTUBEも高い頻度で更新されていてとても面白いので、僕が言うのも失礼な話ですが、ぜひ見ていただきたいです。その節は本当にありがとうございました。助かりました。

いったん本日はここで終わりにさせていただきましょう。長々お付き合いありがとうございました。次は中学での僕の振る舞いや、高校に入るくらいまでを書いていきたいです!

ここまで読んでくれてありがとうな!

by akuta-seiryou | 2020-05-07 18:00 | 生きた記憶 | Comments(0)


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