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ラフターナイトとデシベル

先日久しぶりにライブに出ました。「ラフターナイト」というライブ形式で収録されるラジオ番組で、普段はお客さんをスタジオに入れてやっているところを今回のコロナウイルスの影響で観客はなし、スタッフの方と思わしき人たちが間隔を空けて見ているといった具合での開催だった。オンエアされるかどうかはまだわからないのですが、本当に久しぶりに何人かの人の前で反応を受けながらネタをやりました。終わった後に自分たちのコンビの名前でツイッターで検索し感想を調べました。「おもしろかった」というような事を書いてくれている人がいて、いいねを押しました。その時やはり、自分は人から褒められるのが嬉しくて何かをやっているんだなと感じました。ニートtokyoというYOUTUBEチャンネルでサーヤ(ニート tokyo サーヤで調べてみてください)が僕の「後輩君」というラップの名前を出してくれて、再生回数が1万回(1万回!)上がったのですが、それでも嬉しいのはコメント欄に「素晴らしい歌だねこれは」というような意見が増えたことでした。ラップのライブをしたとして、目の前で喜んでくれている人を見て、そのあと声をかけられて褒められても嬉しいと思います。

2020年4月7日に緊急事態宣言が発令され、5月25日に解除、本日は6月23日ですので緊急事態宣言の解除からだいたい1か月ほど経ったことになります。3月の後半にライブに出演して、6月20日のラフターナイトまで、だいたい3か月ほど舞台に立つことはありませんでした。当初、これほどの事になると思わず、ネタ合わせを重ねたりなどして準備していた単独ライブも延期になりました。ただ自分としては、このような状況になったのだから当然だなという感覚と、それよりもコロナウイルスがとても怖かったです。怖かったというか、今も怖い。コロナウイルスに関して当然詳しいわけはなくネットで調べたりテレビで見たりとしたような知識しかありませんし、そうやって調べることしかできません。手洗いとうがいがとりあえずめちゃめちゃ大事だという事は間違いが無さそうなので、とにかく徹底してやっています。アルバイトもテレワークになり、緊急事態宣言の間は基本的にずっと家に籠ることができました。

家にいると褒められることはありません。僕は5人でルームシェアをしているのですが、リビングに住んでいる奈良田という男を笑わせても「おもしろかった」と誰か知らない人や、奈良田ですら褒めてくれる事はありません。ライブなどがあり、色んな意味で外に出るから評価を受けれます。しかしコロナウイルスは怖い、当然なのですが様々な事ができなくなっています。急にコロナウイルスがどうだとか書き出して何なんだと思われる方、僕としてはこのブログ内でコロナウイルスにそこまで触れている記事がないなと気づき、このブログは自分以外の人にも見せれる範囲の僕の日記というような位置づけを自分の中でしているので、読み返した時に自分がコロナに関してこう思ってたんだなとわかりたくて書きました。とりとめもあまりありません。続けて書きます。

みんなが不安を抱えている中で、お互いの許せる範囲から少しはみでた部分を重ね合わせながら過ごしていくというのは、おそらく大変です。先日お婆さんが外で子供に「かわいいねえ」と言って笑いながら近づいているのを見ました。その子の親は咄嗟に子供を引き寄せ、笑いながら去っていっていました。お婆さんとしては、無意識にしろそれは許せる範囲の「はみだし」だったのだと思います。ただ、親にしてみればなかなか許せない範囲の「はみだし」だったのだ思います。外に出て、人混みでマスクをしていない人を見ると(あ、マスクをしていない)と思うようになりました。自分がしていなくても、やはりそう思われるのかなと思うと、もちろんそれだけが理由ではないですがマスクをつけたいと感じます。でもできるだけあまりそういう事は思いたくありません。マスクをしていない人を見る時の自分の目はめざとく他人の粗を探しているように感じます。他人の粗を探してやろうと思って自分から探すのは、自分の性格の中にはもともとある部分で、自分の中では嫌ではありませんが、思わず探してしまう時の自分は気持ち悪いと感じます。

先日電車に乗っていると、小学校低学年らしき男の子2人が入ってきました。二人ともどちらもマスクをしており、偉いなあと思って見ていると、2人が何と間隔を空けるために席を離れて座ったのです。2人で並んで座れるところもあったのですが、そうなると隣の人と間隔が0になるという理屈を理解していてその場で判断して、話し合うこともなくそう動いた彼らに僕はとても驚きました。本当なら電車に入るなり大暴れでもおかしくない年頃です。というか本来はそのように育つ可能性も充分にあったのでしょうが、コロナウイルスによって公共の場所でのマナーというのが強く意識付けされるようになったのでしょう。その子たちは偉いし素晴らしいのですが、それに対応できない子たちとかは大変だろうなと少し思いました。もし自分が子供時代なら、あそこまで守れていなかった気がします。清潔さとは無縁の幼少期でした。外で落ちたお好み焼きを素手で拾って食べた事がありました。今でも焼売などを床に落としてしまった瞬間など、人間の体のサイズで考えると、少しくらい変なものが体に入っても大丈夫なんじゃないかという知恵のない考えが浮かぶ時がありますが、三角コーナーなどどうしようもなく汚いところに落ちてしまったら泣く泣く捨てるか、よく洗って食べれそうなところだけ食べたりします。先日はカップの油そばを台所の床に半分ほど落としてしまいました。5人の不潔寄りの男で集まって住んでいるわが家のキッチンということは、5人分の素足が自由なステップを踏んでいる家の台所ということなので、そんな所に落ちた油そば、もちろんこれは食べられないと判断し、手で拾い、捨てる前に念のため洗ってみましたが何の味もついていない麺になったので暗い気持ちのままゴミ袋に捨てました。先に捨てられていた「麺大盛り」と書かれたパッケージの上にむなしく着地した大盛り分の麺を惜しみながら、落ちなかった分の油そばをすすりました。

床に落ちたものを食うというのは圧倒的に動物的な雰囲気がします。もし徹底的に清潔にされた雑菌ゼロの床にパスタや米やサラダが置かれて、それを思い思いの食い方で食ってもよいというサービスがあったら繁盛するのでしょうか。一度くらいは行ってみたい気がします。僕が小さい頃、母親はよく家で家事や子育てが渋滞を起こすと「あー!!!!!」などと叫び、叫び終わるとスッキリした顔でまた問題に向かいなおすというスタイルを採用、実践しており、子供ながらにすごいと思っていました。思い返すと、僕が晩御飯用に作った唐揚げを一人でほとんど食べてしまったりしている隙に弟が買ったばかりのDSを「中が気になった」とハサミで解体したり、などストレスが同時多発的に起こる中で「叫ぶ」という原始的かつお金のかからないエコな手段で気持ちを発散させていたのはすごいと思う。小学校の時に「理想の家の間取り」を作るといった宿題で僕が「お母さんのためのストレス発散部屋」と称して、リビングよりも広いサンドバッグとカラオケルームが併設されている
部屋を用意した時は注意されたが、本心から好きなだけ叫んでほしかった。街中で急に叫ぶ人がいるが、あれもいきなりやられたらびっくりするが「今から叫びます」と手をあげて言った後に「わー!!!!!」と叫ぶならそれほど周りもびっくりしないだろうと思う。叫び終わったら「すいません。ありがとうございました」と言えばいい。山の頂上でしか叫んでいけないということはないのだ。いや、今では山の頂上でも「わあーーーーー!!!」と叫ぶとビックリされると思う。山にいってまで「今から わーーと叫びます」と言って叫ぶしかないのだろうか。もちろん、夜の住宅街やその他様々な状況で叫んではいけない場所はある。ただ、それのルールを守って、本当に叫びたいときに「すいません。今から叫びます」と先に宣誓してから叫ぶ。これはみんながやっていいようになってもいいと思う。ここまで書いたがこれはコロナウイルスなど関係なしの時期の話だなと思った。今からはさすがに厳しくなると思いますが、それもゴミ袋などをかぶって飛沫を完全に防ぐならもしかしたらできるかもしれない。

僕は現代人には「叫ぶ」が圧倒的に足りていないんじゃないだろうかと思う。叫ぶのが「びっくりする」「何かおかしくなってるのじゃないか」「迷惑」というような理由でダメならば、「挙手」「宣誓」「持ちつ持たれつ」の3つの対策で乗り越えられるだろう。ここで一個決まりを作りたいのは、目の前にそのストレスの相手がいる時に「大声」はやってはいけない。と思うのだ。それは喧嘩になるだけで、「あくまで今発している大声はこの空間の誰のせいでもありません。まったく別の原因からくる大声です」という約束が必要だと思う。僕はそのルールがあれば、街で「すいません。大声出します」と言って「わーーーー!!」と叫ばれても不快ではない。子供が怖がるかもしれないと思うかもしれませんが、子供は叫ぶものです。子供が年を重ねて大人になり「叫ぶ」ことをしなくなるのだと僕は思います。人工的に「叫び」を大人に取り戻したい。そう願うのみです。以前、栗原君という後輩が主催していたお笑いライブに「デシベル」というのがありました。それはネタ中の声の大きさを機械で測り、一番音が大きかった人が優勝というライブで、僕は112デシベルという「ヘリコプターの下」と同じくらいの叫び声を出して優勝することができた。結局コントの序盤の方の大声で112が出ていたとのことだったのですが、最後一番大きな声を出すために僕が一人で叫び声を出し続けるというのがあり、その時心から気持ちがよかった。デシベルは中野440という客席20も入れば満員になるような狭いところでの、演者と一番前のお客はスレスレというような劇場で、とてつもないくらいに大声を出してよくて、お客さんもそれを変だと思わない。「大声を出すライブ」なのだから、出していいのだ。普通のネタライブだと、やはりあそこまでの「大声」は出せない。最後のくだりは大声というより「叫び」だったので普段のライブでやると、どうした!?という雰囲気になるだろう。でもデシベルだとそれを見てもらえる。

大声は単純に面白い。しかしどうしても「大声で笑っている」というようにもなってしまいがちな大声に対する1つの感覚を、栗原君がそっと「今日は大声で笑いましょう」という単純なコンセプトに変えた時、何の重荷もなく、そこにある「大声」だけで笑っていいという空間ができたのだ。今となってはなかなか難しいコンセプトのライブになってしまい、あの時と同じような気持ちで開催できるのはなかなか遠いかもしれない。デシベルが何の不安も、違和感も、もちろん批判も起こる事なく、ただただ当初そうであったように純粋に「大声」のことだけを考えて笑えるようになる未来がくるように、行動したい。


by akuta-seiryou | 2020-06-23 08:19 | 日記 | Comments(0)


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